我々人間は利口と言えば利口。しかしながら、往々にして無くして初めてその大切さ、有り難みを知る動物でもあるようだ!
普段有って当たり前の物だからこそあまり有り難みを感じない。
健康も自由も!
じっと自分でしたくてしているのと、じっとさせられているのとの違いは、新型コロナ感染による緊急事態宣言の元の外出自粛の上の自粛、令和2年のゴールデンウィーク改めホームスティー週間で、思い知らされているところである。
でも、それでも、有り難い事にあるものは厳然としてある。
重力と慣性力とは常に存在し、常に働いている
大気と大気圧も常に存在する
電磁場と時空間も常に有る。
太陽も地球もまだまだある。
縁とつながりも生ある限りは無いようでもいつもある。
その有るものを有るということを真に認知し、足るを知ると、これまで知覚認知出来なかったものも知覚認知出来、自然の一傑作としての自分への信用、信頼も増してくる。
これまでも「筋肉から身体、人間を見直す」、[検知器・増幅器」を経て「意識体」に至り、そして「人間は知的、感情の動物」を経て、「意識(空間)体2」、「身体のありよう」、[自分という意識体」、「重さと重みと意識体]、[身体とありよう認知」を経て、自分自身の身体を通して人間というものを見直し、思考シフトして来たが、その中で、自他の関係、自分と周囲(時空)の関係性、力という概念も変容せざるを得なくなった。
これまでは、"自分が自分が"で、自分で力を何とか生み出し、それを上手く活用して他を動かすのが人間の活動で有り、自分もそれを上手く実現したいという思いであったが、足るを知れば、そんなに無理に思わなくても働くものは働いており、それを有り難く受け入れ、流し続ければあとは勝手になるようになるという思いに至った。
すなわち、「知足による無為有働享受受用アース反作用仮説」となった。
端的に言うと、刺激、作用には人は反応し、抵抗をする。人も物体も。何しろ重力も慣性力もあるから。当然、反作用は生まれる。が、自分で余計なことを考えず、せず、無為に素直に自然の有り難みを受け入れ、働いているものを働かせ続ける。そのためには、生まれた反作用(抵抗)に対して、有り難く受け入れ、地球にアース(ground)し、浮き(float)、静止する。相手と自然を受用し享受する。すると、物理的には相手からの力(作用でも、こちらから作用させた結果の反作用でも)に対しては、地球と釣り合い、静止状態となる。それに対してさらに受用した相手の力に対しての自分の反作用感覚(受用反作用)は意識で有り、人は抵抗を起こさず受け入れるというのが、この仮説である。物理的作用は地球にアースし、地球と釣り合い、一体化し、受用した反作用の知覚は刺激とはならず、相手は受けてくれる。さらに、自分の身体の一部分の重みだったり、相手の部分の重みだったり、肚からの意識の流れだったり、自ら発揮したものではない、受身的な反作用の感覚、知覚、認知の結果の意識(受用反作用)はエネルギーで有り、それを知覚しているだけで、相手は抵抗出来ず受け入れてくれ、相手が自立的に運動し始まる。わざわざ対象に対して流そうとか、押そうとか、吸い込もうとかは決してしようとしない。余計な思いも、余計な行動も一切要らない。ただただ、感覚、知覚、認知するのみ。認知したら後は相手任せ。大丈夫!
反作用を反作用以上に力感として返すとそれで反応を呼び覚まし返されるが、自分が意識体となり、地球にアースし、反作用を受け入れ、自分を媒体(伝導体)として地球に作用を通してやり続けると勝手にその(母なる)地球からの釣り合った反作用のみが、浸透して行き、反発抵抗をまねくことなく、知覚遮断での認知不成立状態となり、重力も自然に働き、そのそれぞれの重みを知覚認知すると相手は受け入れてくれる。認知と認知のコミュニケーションが成り立つ。後は重さあるいは重み、アンバランス感覚、意識エネルギーを含めたエネルギーを流せばなるようになる。
以上、長いが「知足による無為有働享受受用アース反作用仮説」である。
意識体が自分から相手に力を与える<1>場合と、最初に相手が力を与えてくる<2>が考えられる。
<1>の場合
相手に与えた作用の相手からの反作用をそのまま受け入れて地球にアースし保っているとアース(受容)した地球からの反作用を相手が受け入れて認知不成立状態となり、こちらに譲ってくれるので、その状態を壊さなければほんの少し意識を通すだけで自由に動ける。
<2>の場合
相手から力を出してくれて作用して来たら、地球にアースして保っているとやはり地球からの反作用に対して相手は釣り合い、認知不成立状態となり、自立性を譲ってくれる。
いずれにせよ、最初にこちらから仕掛けるか受けるかの違いのみで、とにかく相手からの力をもらい地球にアースし作用反作用バランス、釣り合いが取れて静止する瞬間が有り、その接触感覚を維持(知覚遮断)したままいれば、自分は身体的にはほとんど何もしなくても、ほんの少しのアンバランスでも、ほんの少しの意識を通すだけでも、後は相手がバランスを取る方向で勝手に崩れてくれる。
もっと言えば、接触する瞬間は自分で力を出しているとも言えるし、相手が力を出してくれているとも相対的にはどうとでも取れる。とにかく力あるいは力により生まれた動きに対して接触し瞬間地球にアースし釣り合いが取れると後はその作用反作用で釣り合いの取れた感覚を維持していれば地球から、肚から、意識からエネルギーは流れる。身体は仕事をする必要は無い。媒体となり媒体を維持するだけ。
ゆえに、接触する際の力のベクトルがどこからどのように働こうと無関係で有り、非接触でも(厳密には空間、大気圧を介した接触)でも原則は同じである。
要は地球にアースし一体化し流体が静止し、エネルギーが自由に流れる状態さえ作られてしまえば、後は意識エネルギーだけでも十分。また、意識エネルギーだけで十分と言うことは、米粒一個の重さの力、アンバランスでも、小指一本の一関節の重さだけでも十分ということ。
意識体同士が(空間)接触して触れ合い作用反作用で地球と釣り合いが取れてしまえば、後はエネルギーの流入流出、循環も自在ということ。
しかしこの辺はわざわざ頭を使わなくても、地球にアースし作用を受用し、反作用をのみで静止し知覚遮断状態を作れれ(アースすれ)ば、後は目的に応じて、ほんの少しのアンバランスでも、物理的エネルギーでも意識エネルギーでも流してやればよい。目標を定めて視線をそこに持って行くだけでも十分。
ただし、それを実現するためには、地球とアース(ground)し浮き(float)、静止するありようの実現が必要であり、その身体認知のシフトを下記に①から⑥で図示する。
①は生身の身体同士、物体同士の関係。
②は肚および身体全体を流体と認知した意識体へのありよう1段シフトした状態。
体内は静止し、各所パスカルの原理通り均一、均質に圧が掛かっている。
③呼吸をする際に息を吸うように、肚という意識体の中心に流体の重さ(実際の重さ)ではなく重み(重さ感覚、知覚)が流れ込む、吸い込まれ、それが地球まで吸い込まれ続けている状態。
④さらに意識体が肉体の身体を越えて、大気中まで球体の意識体として広がり、さらに周囲から重さが肚に集約されて地球に流れて居る状態。
⑤そしてその意識体が、相手を含む空間にまで偏らずに広がった状態。
相手が前に居るから前に意識が偏らないように、また、腕をつかまれたからといって、腕に意識が濃くならないように意識体の感覚、知覚を錬る必要はある。
⑥また、何も地球に吸い込み流れ落ちるだけでは無く、重み、エネルギーが地球から沸きだし四方八方へ拡張拡大もする。
触れに行こうが、触れに来ようが、結局は触れ合い、健やかに元気に自由にそして幸せになれたらよい。足るを知り、母なる地球にアースして浮き身の状態で内観を通して自分とコミュニケーションを取り続けるだけ。他は他で有り、他のためでは無く自分のために。しかしながら一人だけでは存在し得ず、生きられない。他自融合し思いは通る。
他があるから、環境があるから、自立させてもらえ、力を通す媒体となり、作用点、支点、力点も自在にデザイン出来、自在に意識というエネルギーを流せる。自然界に流れて居る物理力とその流れにさらに自重の意識というエネルギーを自由に加えることが出来るのが意識体としての人間の機能である。ただし、エネルギーの元は決して自分の筋力ではない、その力の源は他であり、たとえ自分から発した力(自分の体重全体あるいはその一部の重み、筋力)だとしても相対的認知の結果あくまでも受動的受容反作用である。ゆえに小指の伸縮力も小指の筋力として作用させるか、その身体全体をアースしてその小指により発生した力の受容反作用として相手に伝えるかで雲泥の差である。
また、一度発生した力は相互に反作用を繰り返し波が寄せては返すようにその反作用波は振動し繰り返すが受ける時は地球に流し、返る時には受容反作用として返す。すなわち相手には受容反作用が波のようにも、津波のようにも押し寄せる。もちろん引く時には引き潮の津波ともなれる。普通の波にも、かめはめ波、ドドン波にも、意識のデザイン次第。鳴門の渦のようにも円および楕円軌道、渦巻き軌道でもイメージ次第。
自分だけでは存在し得ないが、すべては相対的であり、相互的である。が、その現状をどう認知するかはその意識体の認知次第。どうしたいのかはデザイン次第。どうだったらよいのかはヴィジョン、願い次第。思うがまま!
微笑み返しが最強!
ゴム飛行機のゴムを巻いて、それを解放して飛ばす感じが受用反作用。
ただし、身体という長いゴムを短く使うか長く使うかはヴィジョンとデザイン次第!
自他の圧差、ガス抜き、アースを身体で行う受用反作用を物理学法則と認知の心理学から仮説機序を立てた。
How to doでなく、How to beで、体の認知より、頭の認知で自然の状態を誘導出来る。
する必要はない、受け入れゆずる意識をキープし続けられればよい。それを身体のどこでやるか。
足裏で地球とコラボしてやるか、やはり地球に支えてお雷ながら、丹田でやるか、はたまた知覚遮断で接触部で実現するか?
本質的には同じ原理である。