図と地の自分

我を張ってしまう「図の自分」と客観調和的な「地の自分」

2021/06/28初版 2021/07/01改訂


 これまでも人間に関して自分なりに学んでは考えては来たが、ここに至り自分の身体感覚を通して自分という人間の捉え方、感じ方が変わって来ている。即ち、自分という人間の思考シフトだ。

 それは、これまでは我が出やすく、角だらけ節だらけで、部分的でぎこちない「図の自分」だった。体のパーツも悪い意味で局所指向、部分指向であり、局所的であり、局所的無駄と無理を重ね、ムラのある身体(頭としての指向機能も、肉体としての身体機能)のありようだった。それは常に、外の他の部分しか見えず、聞こえず、触れず、それに過敏に過剰に部分的にしか反応し得ず、その結果のゆがんだ認知の現状認知(現実認知)し、それを元に行動してしまっていて、それが自分と固定観念化していた。すなわち、外観優位の運動モードだ。

 それに対して、万有引力の法則を大本とする自然科学原理を知覚認知し理解しようとするとその判断基準、感覚器の意味合いが変わるようだ!

 質量より生まれる重さ、重さから生まれる重観(おもみ)、重観から生まれる接触感(硬い・柔らかい、厚い・薄い、濃い・薄い、鋭い・鈍い、丸い・角張っている、滑らか・ゴワゴワ、圧力・陰圧、存在感・虚無感、集中・拡散、部分・全体、均質・ムラ、つながり感・断続感、温かみ・冷感、納得感・違和感、快感・不快感等)。

外観が具体的具象の知覚とするとこの接触感は抽象概念知覚であり次元の異なる知覚の内観であり、その結果次元の異なる現状認知となり、当然目的認知、目標認知も運動モードとは異なるものとなる。それが認知モード。

 

 さらに、「地の自分」という観点から、自他の区別って付けられるのだろうか?

たとえば、汗、ふけ、小便、大便などは、いつから自分で、いつから自分で無くなるのだろう。

 口から始まり肛門に終わる消化管を考えた場合、入る食べ物は外の物であり、自分ではない。しかし、胃と小腸と大腸で、消化され吸収された栄養分は自分となり、その残りカスは便(排泄物)となる。この便成分も最初から食物に入っていたもので有り、食物としては栄養分(自分となる分)と残りカス(自分とはならない)が最初から存在するが、それは自他として区別は出来ない。

 食物が上唇と下唇からなる境界面を越えて体内に入ったら自分か?

食べ物を口の中で咀嚼している内は自分とは思えない。食べ物だ!

では、食道を通り、胃に入ったら自分か?

そこまで行くと何となく自分としても良さそうだが、だが、消化吸収されて自分の一部になったわけでも無い。その証拠に、吐けば吐き出せる。自分では無い。

胃の幽門部を越え、十二指腸に入ってしまえば、吐き出せず、さらに吸収が始まり、吸収されないカスが残り始める。空腸、回腸を経て結腸(上行、横行、下行)で次第にカスが集まり水分も吸収され、ほぼほぼに圧縮された完成品が大便となるわけだが、だが、上行、横行、下行結腸のどこからが大便なのか?

直腸に貯まった物が大便?

どこからがカスで、どこからが大便か明確には分けられない。それ以上にカスと言われようが、糞といわれようが、大便と言われようが果たしてそれは自分なのか?

自分の体重を構成する要素としては確かに自分という要素のひとつではあるが、体の一部かと問われるとさてさて、自分という認識はしずらい。排出されトイレに流される運命の便は肛門から出た途端排泄物と言われ全く自分とは別物となるが、その排泄物も、どこから自分となりどこから自分では無いのか?

体内にある内は自分? 排泄された途端自分では無い、他か?

 

食べ物のもどこから自分となり、どこから自分の便で無くなるのか?

体の中にある内は便も自分? 排便して検便に出したら、自分ではないが、自分の便。でもトイレで流したら、自分の便も糞も無い。自分では無いし、自分のものでもない。

 

自他の境界、区別はあるようで無い!

口を閉じていれば口腔内は体の内だが、口を開けたらどこまでが自分の体の内?

上唇と下唇を直線で結んで出来る面の内外が内と外?

口を開けている場合はその境界面の1mm内側までが自分?

その0.01mmまでが内側で自分?  では、その境界面の0.1mm外は外?

その0.02mmの差は何?

口腔内、鼻腔内、耳腔内はどこまでが内と外。

消化管もどこまでが外で、どこから内で、どこまでが内で、どこから外?

自分の内外も区別されるようで区別が難しい。

 

認知いかんでは、呼吸器官も消化器官もすべて体外とも認知出来る。

 

耳腔、鼻腔、口腔など自分の体内の空間を自分が影響を与え管理出来る空間が自分と定義すると、指で作るドーナツの輪っかの中、パーからグーにいたる途中の握られた空間は?

表皮の数ミリから数センチの温かみを感じる空間、圧を感じる外表面の空間は?

全くの他では無いゆえ、地の自分となる。

ましてや、温かみ、厚み、圧みを感じられる時空は、全く別物の他とも言い切れない。他では無いからやはり自分?

 

感覚無く、知覚無く、認知無ければ、自分とは認知出来ないが、しかし、一端感覚、知覚し、認知したら、意識体としての自分となる。

 

すなわち、自分と認知する「図的認知の自分」と、他を認知し、他では無い自分という「地的認知の自分」との二つの自分を認知出来る。自分の肉体としての身体感覚以外にも自分として感じられる部分、他とは思えない部分はやはり自分?!

 

自分というのは実存で有り、概念である。

概念は具象化も出来、抽象化も出来る。

その概念を規定するのに、その構成要素から組み立てる事も出来る。それが「図の自分」

一方、自分では無い物を消去して、残った物と規定することも出来る。それが「地の自分」

しかし、その両方の視点からも判別出来ない領域もある。くっきりと分けられないグレーゾーンの自分もある。

ゆえに、概念的にはくっきりと区別も出来るし、自他の明快な区別は付けられないとも言える。自他の境界あるようで無く、無いようである。

認知次第、意識次第で自分を概念化出来る。

それが意識体としての自分!