人間という存在について考えてみるにあたり、まず、対象物、存在について分類して見たい。
我々は通常五感といわれる感覚を用いて外界を知覚、認知している。
その中に感覚器のうち味覚、嗅覚を除いた視聴触覚の三感覚器による対象物、存在を分類してみる。
その分類図は下記の「三知覚要素による分類」通り八通りに分類される。
例えば、雷は通常は触れられないが見えるし、聞こえる。一方虹はやはり触れられないし、聞こえないが見える。この三感覚器官により知覚、認知出来る対象物(存在)もある。がこの三感覚器官では知覚、認知出来ない対象物もある。
点、線、面、時、円、球、情報、人間関係など、触れられず、見えず、聞こえない。さらには味わえない、匂わない。生体の感覚器で直接、直には知覚出来ないが認知出来るもの、存在がある。
点は位置はあっても幅も長さもない。概念、コンセプトである。
0(ゼロ)も1(いち)も∞(無限大)も。
現実、自然界には存在しない。が、無いわけではない。それぞれの概念がある。一個一個のリンゴは皆違ってもリンゴという1つの概念、言葉がある。
すなわち、言葉は概念であり、存在である。
感覚に基づく存在:実在的存在
思考による存在 :概念的存在
即ち、人(one)も、肉体という実際の存在もあるが、概念としての人間(human being)も存在する。そして、人間には、実際の血液が流れる血液循環もある。さらに中枢神経では髄液循環もある。重さの通る身体の流れるラインとしてはインナーライン、アウターライン、さらには、東洋では丹田、肚(はら)、陰陽、経絡、ツボなどの概念もある。
見えもせず、触れもせず、聞こえもしないが概念、言葉があり、存在する。
しかも、恐ろしいことに、素晴らしい、不思議なことに、その概念を情報、知識のみでなく、感覚を開き、知覚を錬っていくと、実際にその存在感が増してきて意識的にも扱えるようになり、力を発揮出来る様になる。
実際の身体の感覚、知覚、認知と行動を通してその体験、記憶を積み上げて意識を明確に形成していくと、重さの流れを水の流れのように感じられ、活かせるようにもなる。地天人のありようで、手の接触部から足裏の地球に相手の圧、重さを享受し、伝え、さらに地球からの反作用を活かせる様にもなる。最初は実際の身体の部分部分を経由したラインであるが、それが知覚出来るようになれば、肚と掌の一点と一点を結ぶ、肚と労宮あるいはVラインに直接意識で繋げられる。そして、意識ライン conscious lineを自在に設定、認知出来て来る。
認知、思考するがゆえに存在する。
現代の科学に基づけば、我々人間は地球という磁界の中で、準静電界を形成しており、それを利用したコミュニーケーション、ネットワークも構築している(参照:1.発電器としての身体 2.検知器・変換増幅器としての頭と身体)。そして、接触していても伝搬するが、電磁波は時空を介しても伝わるし、意識ラインも、自分の肚と掌(湧泉、Vライン)のみならず他の身体部分、さらに理論的には身体外にも設定出来そうである。対象の人間と肚と肚の意識ラインでつながる感じも可能となる。知覚を認知の側から迎えに行き、これまでにない感覚を錬っていくと、たくみの会での影(残した意識)をつかませたり、実体の気配を消すことも出来ることは見聞している。
すなわち、肉体としての身体、人のみではなく、感覚、知覚、認知、行動が循環し、蓄積して意識として形成された非実在の存在の意識ライン、意識(空間)体が存在可能であり、利用可能である。下図に示すように、前後左右という2次元平面さらに上下も加えた3次元空間で自在に意識体として存在しつながるというかつながってしまう。否、切らない限りは最初からつながっている。触れ合っている。
また、その意識した肚をさらに練り、ほんの少し意識を動かせば、体が自律的に自立して仕事をしてくれる。
正しい知識の元、人間を正しく認知し、現状認知も正しければ、当然の結果が起こる。人間は思っていた以上に自由度の高い意識体である。であるがゆえに、自分自身に対する人間存在そのものも自分で自由に形成出来る。錬る。思考する。創造する。 --> 意識(空間)体2
人間は学習し、思考し、思考シフトし成長し続ける存在である。