身体の”ゆらぎ”からの人間再考


 身体は ”ゆらぎ” がある ”ありよう” だからこそ、感覚、知覚、認知も精緻に迅速に発揮され、思考も自然に自由自在に発揮され、飛翔もする。

ゆらぎは、認知ゾーンの結果の身体のありようで有り、また、逆に認知ゾーンに入るための土台、基本でもある。

元(因)であり、結果(果)である。

ゆらぎは自然体であり、居着かない、いつでも動ける状態である。

ゆらぎは環境の変化に動じないで、受け入れられ、自然に動いてしまうありようである。

 

ゆらぎは、木偶の坊には無い。ワカメなど海の中でゆらゆら波にゆらめいている海藻類のイメージである。

 

ゆらぎは、間合い(間)である。空間スペースで有り、時空間のゆとりである。

ゆとりが無く最初からクラッチががっちりとかみ合っている状態では坂道発進は無理である。が、クラッチ相互にゆとりがあり、空回り出来る空間があるからこそ、半クラッチで、坂道発進可能となる。

 即ち、細胞レベルでクラッチがしっかりかみ合った状態が、固体の状態(固相)であり、半クラッチ状態が流体(液体、気体)の状態である。

 さらには、心理的、精神的にも頑張っている状態がクラッチがしっかりかみ合っている状態であり、頑張っている場面でさらに頑張れば頑張るだけさらに身動きが取れなくなる。頑張って坂道を上れないでいるんだからやはり半クラッチにしてみたら良いと思うのだが。

 現代においては、自動車教習所でマニュアル車の教習では教えられるが、それ以外の教育の現場、実社会では半クラッチ状態など有り得ず、ひたすら頑張りを求められる。

エンストを起こし身体を壊す元でしかない。

それもほんの些細なレベルからずっとやり続けて、習い性となり習慣化し、固定化し、ストレスまみれの状態が現代。また、頑張れる所は頑張るが、そうでないところは益々使えなくなり廃用が進み、そのアンバランスが進み益々悪循環に陥って行く。

 

 固体に関しての力学としては、静止物体に働く力の釣り合いを扱う静力学があり、さらに物体の運動についてはニュートン力学と言われる動力学がある。

さらに、流体に関しては流体力学がある。

流体力学もさらに、流体静力学(fluid statics)と運動状態を扱う流体動力学(fluid dynamics)に分かれる。工業分野では水を対象とする水力学と空気を対象とする空気力学とに分かれる。

 

流体だからこその現象、原理がある。

アルキメデスの原理、パスカルの原理は、流体静力学であり、ドップラー効果は流体動力学である。

 

 

 また、工学分野では4力として、機械、材料、流体、熱の4つの力学に分けて論じられている。

ゆらぎは流体静力学および流体動力学であり、熱力学でもある。さらに波にゆらぐことからも電磁気学でもある。

 

 いずれにせよ、身体は流体であり、筋肉、シナプスという起電力を有する電磁気体でもある。もちろん固体としても機能するが、ゆらぎに関しては身体のありようは流体の状態での機能であり、ありようである。

すなわち、身体のありようが流体となり、初めて認知ゾーンとなる。シナプス回路も本来のクロック数を発揮できるようになり、電磁気学的な意識体も俄然その能力を発揮してくる。固体の身体の能力とは次元の違うレベルとなる。

 

 一般的には身体は固体として認識され、スポーツ分野、介護・医療分野でも筋肉骨格関節による運動という捉え方をされている。確かにその認知から出発してそれなりの学問体系もある。が、部分が生じ、力、応力にムラ、歪みが生じやすく、無理、無駄が発生しやすい。その点、流体はパスカルの原理により圧力は均等に掛かり、部分へのムラ、負担は生じない。

 アルキメデスの原理の浮力も、パスカルの原理も何かをするからでは無い、その静的状態を保つからこその自然の状態で有り、わざわざ何かをしなければならないものではない。する事は、流体の密閉静止状態(fluid statics)をある瞬間維持すれば、良いだけ。わざわざなにかしようと余計なことをせず、ある瞬間静止密閉流体状態となれば浮力は働くし、一部に加えられた圧は瞬時に全体に伝わる。圧、力が作用すれば、反作用がこれも何も余計なことをしなくても発生している。何もしないからこそ、圧も力も働く。何もしない環境整備が準備で有り、外から有り難く何らかのエネルギーを受容しそれを目的に応じて活用(享受受用)するだけ。

 我々は大気の海の中で暮らしている。凪いだ瞬間、相対的に静止し密閉された流体という環境も作れる。何も特殊な環境をわざわざ作らなくても日常生活で fluid statics も作れるし、通常は fluid dynamics 状態で生きて居る。それをわざわざ凍らせ、居着かせ、固体としてその機能を低下させなければ良いだけだ。

なるほど、相手と一体化し協働開始の際に、静の瞬間があるのが、体感と一致した。

 

 知識を得て何か特殊な状態、方法、技能を獲得をすることが運動能力を高めることでは無い。意識流体の本来の機能を発揮する状態、環境 fluid statics を整え準備し、待ち、それに力、圧力としてエネルギーを与えられたら、目的に合わせて自然に即してエネルギーを流れる状態を維持することが、運動能力を高めることである。重力も慣性力も常に流れている。ブレーキを掛けて邪魔せずその流れをデザインし淀みなく滑らかに流れてもらうだけ。

 以上、一般的には馴染みは少ないが、身体は流体であり、電磁気体であり、知覚認知のたまものの意識体というのが、和真認知楽習塾の捉え方である。

 

 太古の昔から人間の本質的な機能、能力は何も変わり無いものと思うが、蚤のサーカスではないが、元々ある能力を科学が発達する中である狭い分野に閉じ込めて窮屈に認識されているのが、現代の人間観の現状である。人間そのもの、その可能性はまだまだ未知なるものとして素直に観ること、認める所から出発した方が人間の可能性は大きく広がり、その奥は深く、その能力、機能は開花しやすくなると考える。