和真認知楽習塾とは、その意義


和真認知楽習塾とは、その意味、意義、ビジョン

人とのつながりとは? 

重観(おもみ)からの気づき。

世間一般から見たらちょっとというかかなり不思議な感じの事象がある。
お互いが、触れるか触れないか、指一本を抓(つま)まれた程度でも、皮膚が接触している程度でも、相手の崩れる所を選択して相手をそこから崩すことが出来るのはなぜか不思議であった。
ましてや、触れずには。

もちろん、たくみの運動方程式で、
(重さの力)x(ありよう)X (コミュニケーション)=>動き
であり、相手を動かすのは、筋力ではない(重さの力)だとは思っていた。

ということは、これまでは上記の三つを、”別々のモノ”だと思っていた。
しかし、そこには2つの大きな勘違いがあることにやっと気付いた。

勘違いその1:モノではない!
上記はいずれも何かソリッドな、個別に取り出せるモノでは無い。すなわち、すべてありようであり、1つ1つが独立して存在しているのでもない。
それまでも、上記のひとつでも変わると他のモノも変わるとは常々言われて来たことではある。
それだからこそ、また、3つは別のモノ、何か特定のモノだと思い、それを個々に別々のモノとして捉え、別々のモノを追求して、モノにしようとして来た。

勘違いその2:3つではない。ひとつである。
三身一体であり一つのもので有り、単なる3つの側面から3つの名前があるだけ。
確かに、動物である人間の本質を追究する際には、三つを切り分けて説明した方が分かり易い。また、確かに3つあるといえばある。無軸、無支点、無中心というようにないと言うことを言うためにその存在を科学的に概念化させ存在させてそれを”無”いとわざわざ表現しているのと同様。人間のその機能、そして能力を3つの面から概念化したもの。

重さの力重観(おもみ)は最初一緒かと思っていた。
そして触れて重さが流れて、その流れて来る重さ(重み)で、相手がバランスを崩して崩れる。そのためには重さの力を流せる身体のありようと相手とのコミュニケーションが必要なんだとばかり思っていた。

しかし、重さを流したからといって壁や柱に流してもそのものは何も変わらない。かえって自分に返ってきて自分が崩れるのが関の山。それが実現出来るありようであれば。
ゆえに、たくみの会でのスプリングトレーニングも重さの力を感じ、ありようを磨くトレーニングにはなる。そして自分とのコミュニケーションともなる。しかし、これまでは重みが流れ、物体(流体)が流れるものとイメージしていた。
確かに流体が流れるイメージが近いし、重みが重みとして感じられる場合がある。しかし、上記の事象の時にはその重みすら感じさせたら余計なことであり、指合気上げの状態は決して重みを流し込んだから、弾ませたから相手があがるのではないことは実感される。

皮膚も弱い壁ながらも皮膚を越えて水が流れ込むわけでもない。現代文明の粋を集めた非常に薄い袋に水を入れてその水の肌触りを楽しむ事は出来ても、その水がその薄い膜、あるいは皮膚を通して流れ込むのではない。
津波のように実際に海水、水が流れ込んで相手を崩壊させるのではない。型を通して津波を起こすことも出来る。しかし、一見イメージはしやすいが決して水そのものが流れ込むのではない。

遠観(とおみ)全観(ぜんみ)から、重観(おもみ)も単なる重みでは無いことは分かっていたが、重観とはも、分かるようでスッキリしなかった。

一体何が実際流れ込むのか分かるようで分からなかった。
重みというエネルギーが、あるいは圧が、流れると思っていた時もあるし、世間では気が流れると称する場合もあるようだ。確かにそのように解釈してもそれなりの事象、現象を起こすことは出来るだろう。
しかし、自分としてはそれでは釈然としなかった。指合気上げはそれでは説明が付かない。
起こっていることを説明するのは中々困難だと思っていた。

そして、これまでは筋肉は身体を動かすためにある、運動器官だとすり込まれていた。

八光流の豊和会の稽古で、自分なりに型や技ではない稽古、ありようを追求していて、その際に基本中の基本一番最初の技、決してつかまれた腕を引き剥がし取るのが目的ではない、つかんだ相手をこちらが捕まえておく「八光捕り」を課題にして、広沢師範にアドバイスをもらって試していたら、これまでにない感覚を得た。
それまでは屈伸運動、屈筋、伸筋ということで、屈曲では無く伸展させる。それも力では無く重みで伸展してしまう練習をしていた。緩やかにのびのびと動く練習だ。
しかし、しかし、その時には本来は貰ったアドバイスとは違う身体のありようを実現してしまって、その時の課題と、アドバイスに対してはcheck1では失敗!
だが、check2オッケイ!
これまでにない感覚を知覚した。また、身体のありようが楽なのを実感した。何もしていない!

曲げない、伸ばさない。上腕二頭筋等尺性収縮をさせたのだ。おそらく伸筋側の三頭筋も等尺性収縮しただろう!
それも硬直したら意味は無いが、全身緩んでリラックス状態で、重みが足下に流れて居る状態で、接触部分ではない上腕部を!
その後、体幹部分、地球に近い部分、相手より出来るだけ離れている部分をほんのちょっとだけ、等尺性収縮(*参考)。これまでにない位無感覚ながらも、えっ!こんだけでいいのという感じ。それで十分伝わり、変化する。接触部は何もしない。認知不成立状態のまま(八光捕り:掴まれているが、こちらが掴まえている状態)で、足元に近いところを等尺性収縮させるだけで勝手に相手の手は挙がる。

もちろん、鉄筋コンクリートの壁、柱、棒にそんな事をしても、なんの事象も発生しないだろう! でも、それでもスプリングでトレーニングしたら感覚、知覚を磨くことにはなるだろう。

で、そう思ったらただその等尺性収縮の意識のみ持ってみた。
身体の接触部分より遠いところ、本来の動かす課題であった部分以外を等尺性収縮させるつもりで身体全体は何もしない。
知覚2ラインのワンライン状態なのだろう。相手に動いてもらうという目的に対して、そこで自分の身体の一部に向けて極超近未来の等尺性収縮を願うという標的。
観念動作といえば観念動作!
あとは、身体にお任せ。身体の自律性に任せてあとは相手を感じて付いて行くだけ。
危なくないように軟着陸するように導くだけ。相手の自分の重みでその人が痛まないように守るだけ。

おお、知覚2ライン、プラス2ライン、そしてシフト2ラインやってんじゃネーと
その時は全然思もいもしなかったが、今、解析、分析して書いていて、そうなんだと気付いた。

もちろん、どうしても部分に拘泥して身体操作、動かそうとすると、流れず、固まり、居着く結果となる。
まだまだ、居着いてしまう時があるが、それでもありようが変わったようだ!
再現性、切替の自由度があがった!

頑張る感じ、努力する気が無くなった。というか薄らいだ! ややもするとすぐもたげては来るが!

そして、見え方、感じ方、肌感覚も変わって来た。

まだまだ、認知楽習システム概念図の①から②への切り替える練習段階だが、それを常態化、常に②の良循環を維持出来る様に、感覚、知覚を磨いて、人間について学んで行けば良い。

で、結局、何が流れるのか。
それは決してこれまで思っていた基本物理量(質量、長さ、時間)でも、物質量、光度ではない。
電流と温度は否定しきれない。そのなんらかの情報が流れるのだ!
人間は動物と言われて、運動する、行動する高等動物、霊長類ではある。が、でも、身体は運動器官と言うよりは、情報受信、情報発信そしてその処理装置だ!
神経同士も、神経筋接合部シナプスでつながり、化学物質も神経伝達物質として流れるが、神経繊維を飛んでいくのは電流であり、電気信号である。それもオンかオフの”全か無かの法則”に則った電気信号だ。
筋肉は確かに運動器官でもあるが、情報発生器官だ!
趾から瞼まで筋肉はいっぱいある。どんだけの情報を発生させられるだろうか?
筋肉の微細な緊張のオンオフ情報、その結果の力、圧力、圧、エネルギー、電気量、電位差(電圧)、静電容量、磁束、磁束密度などのSI組み立て単位のなんらかの情報が流れて居る。
全身の筋肉が400個としても、筋肉単位でも2の400乗通り(ビット)の情報を発生可能である。
それをさらに時系列でほんの数秒でも発生させ続けたら、どんだけの情報の洪水になるか?!
さらにその信号発生源を筋線維(神経筋接合部、シナプス)にまで分割したら、いったいどんだけ!

人間一人、個体ひとつと言えばひとつ。全体で一つの情報源でもあり、無限の情報発信能力を有している。情報発信ゼロもある。
我はゼロ、無であり、一であり、∞(無限)である。

感覚器として肌感覚とはいうが、筋肉もその情報を受け取る(身体感覚)受容器(器官)でもある。

いずれにせよ我々は情報入力処理出力装置である。それも超高感度、超能力の!
その超高感度の情報処理機能を邪魔しないように身体のありようを戻し、維持出来る様にするのが、今後の課題であり、世間にも伝えて行きたいことだ!

流れるのは情報、そのための受信機(器官)、発信機(器官)、処理機(器官)であり、運動機(器官)が身体(頭も含めた)だ!

その身体をその情報処理装置自動運動装置として自由自在に動けるように解放する。
その運動面の3面が”運動方程式”であり、その情報処理機能面が”認知の心理学”という表現なんだ。いずれも人間を扱い、人間解釈の人間原論だ!

人間の情報処理システムを学び、身体の動きを楽しみ、人間を学び知る楽しさを追求するのが、なるほど和真認知楽習塾なんだと、開塾10日目にして気付いた。( さらに、改変した和真認知楽習システム概念図:運動ゾーン、認知ゾーン 下記をご参照下さい。 )


おお、言い得て妙の命名だ!
スッキリ!

和真認知楽習塾!
Wasin cognitive joyful juku!

OK!!!