浮きとバランス調和の身体運動理論

 武術遍歴を経て、たくみの会でそのコンセプトに触れフルスペックライセンスを2014年夏に取得し、「浮きを掛ける」だけでも「知覚不統合」による「認知不成立」となり、その人自身がその自律性を回復し、さらに生体のホメオスターシスを活性化させ、自己治癒力を発揮させて行くことを実感するに至り、真にその人自身が自分自身で自分を治療するというコンセプトが体感され実感された。

 

身体能力開花のための現時点(2019/3/2)での私の人間に関わる基本的認識を浮き』という観点から下記に述べる。


 『浮く』というと、狭いイメージでは上方向のみで、ヘリウムガスが詰まった風船がどんどん上に上に昇っていくイメージだが、上方向にばかり行ってしまう、上擦ってしまった状態とは異なる。

 さらに、『浮遊する』と言う意味での浮くは、上下のみならず前後左右(四方八方)に動いてしまえる状態がイメージされる。シャボン玉が空中に浮いて、風に乗って漂っている感じ。

 

武術的には、相対的浮遊状態もあり、感覚であり、自身もさることながら、相手に対して浮きを掛けるとも言う。浮きが掛かるからこそ、決してふわふわという状態では無く、普段は出来ない素早い動きも出来る。

 

すなわち、微小な重さの力で上下前後左右、四方八方どちらにもすぐに動き出せる状態を浮きが掛っかたと認識する。

自分自身に浮きが掛けた状態にし、瞬時に自由に動けるようになる。さらに相手に浮きを掛けると、身体が緩み、崩れてくるので、危なくないように、補助、支援し、見守り地球に軟着陸してもらうことも出来る。

武術的にも、介護的にも浮きは活用可能!

 

 一般的には浮いた状態、浮いた感覚を得るにはおよそ次の3つの状態が思い描けるものと思う。

 

1.シーソーで釣り合い状態での浮いた感覚。
2.水中で浮力で浮いた状態での浮いた感覚。
3.無重力、落下状態での浮いた感覚。

 1つめのシーソーで浮いた状態は、釣り合っているので、上への少しの力でも上に動けるし、坐っていて上半身を少し前後に傾けただけでも上下に移動は出来る。正確には上下にでは無く、支点で水平に釣り合った状態から、支点を中心に前斜め上あるいは前斜め下には上下動出来る。

さらに、支点が水平面上を自由に回転出来る様になっていれば、一応左右上下に自由に動ける。

 

正確には、支点を中心に坐っている所までの距離(半径)を維持した球面上の自由移動は微小な力で簡単に出来る。

 2つめの水中で浮いた状態も確かに浮いた状態であり、これは上下左右のみで無く前後にも浮いた状態である程度動ける。動けると言えば動けるが動きにくい。静水圧とその結果としての浮力が常に掛かり、歩くだけでも水を押しのけなければならず、非常な負荷が掛かる。自分の身体の重さは浮力で軽くなるが、地に足がつかず浮いてしまい、歩くにも蹴るに蹴れない。踏ん張れない状態に浮くというか、否応なく浮いてしまう。その浮いた状態は、姿勢を保ち、上下前後左右の感覚を失わずに、身体を崩さずに、蹴らずに歩く稽古としては、最適である。

 

周囲で誰かが泳いで居るとその影響をもろに受ける。慣れないと波動を受け姿勢もバランスもすぐに崩れてしまう。歩くコースも揺らいでしまう。しかし、無理にそのポジションを保とうとすると余計に疲れるし身体も崩れる。それだけに受け流す練習には最適である。3時間でも、4時間でも楽しめ、全身心地よい疲労で家に着いて、横になったらすぐに眠れる。

 

 3つめの無重力状態は映像で実際の宇宙飛行士の無重力状態を見ることは出来る。

が地上で通常の生活している我々には、それをそのまま実際に味わうことは出来ない。

 

 

宇宙飛行士の無重力状態の訓練のためには、放物線飛行という自由落下をする飛行法が工夫され、擬似的な無重力(微小重力μG)状態を数十秒、作り出すことが出来る。

 

 地上の日常生活でも、その無重力状態と近い状態、微小重力状態は、落下している時に瞬間的に味わえる。

 

だがしかし、その落下による瞬間の状態、感覚は、通常ではなかなか味わうことが出来ない。

 

 

否、本当は常にその体験はしているのだが、それを知覚、認知することが出来ない状態に我々現代人は陥っている。

 

味わえないその原因、理由としては二つある。

 

1つ目は、自身の身体を部分的にも全体的にも落下させられない状態に陥っている。居着いている。

 

  2つ目は、例え落下してもそれを落下と知覚し、認識、認知出来ない状態に陥っている。自分の身体感覚に耳を塞いでいる。

 

しかし、その機能、能力が無いわけでは無い。最初から我々人間にも備わってはいるが、いずれも発揮出来ない状態に陥っている。

 

一般的に『浮く』というと外からの力によりふわふわと動かされてしまうイメージが強い。

 

 私が初めて地上で無重力状態を味わい、浮きを実感したのはたくみの会のセミナーでの認知の不成立を味わった時だ。

四つんばいの状態から片腕を取られて、認知の不成立状態にされ崩された瞬間だ!

全身脱力状態となり、一瞬にして崩され、本当に空中に浮いた感じと、次の瞬間には床に軟着陸し、なんとも言われぬ心地よい状態、何もしたくない状態を味わった。

すなわち、浮いた感じ、無重力状態を実感し、味わった瞬間であった。

 

だが、まだ、その時は、浮きと落下が、同じ現象の表裏だと認識は出来なかった。浮きは浮き、落下は落下であり、別物、違う状態としか認識出来なかった。

 

その後も、『浮きを掛ける』、『落下』、『抜き』、『居着つく』とは、『重さの力』とは何だろうと疑問に思いながら、自分の身体のありようを模索していた。

 

 

地上での無重力状態とは、自由落下している途中の状態である。が、地上では真の無重力状態を作ることは無理。それは空気抵抗があるため真の無重力とは言えず、微小重力状態であるという。

人工的な無重力(正確には微小重力μG)状態を作る1つの方法として、飛行機を急上昇させておいて、 エンジンを止め落下させ、それを繰り返す放物線飛行法(パラボリックパターン)がある。

 

 

http://iss.jaxa.jp/education/parabolic/experiment.html

そうすると機内に置かれてある物、人は浮く。その飛行機という座標系で見ると無重力状態で、物も人も浮く。しかし、同じその現象を、飛行機の外から別の座標系で見ると、飛行機も、飛行機の中の人も物も、落下しているだけ。すなわち、落下が浮きであり、浮きは落下である。

観測する場、座標系が違うと見え方、感じ方が違う。

 

 

放物線飛行法を知り、認知の不成立で全身脱力落下を経験し、その後の身を持っての試行錯誤の結果、おお、浮くとは落下することかとやった実感し、認識するに至った。

すなわち、重力に身を任せて、自由落下している最中のいわゆる無重力(微小重力μG)状態が、浮いた状態であると認識するに至った。逆に相手との関係性においては、浮いた状態で無いと落下も出来ないと体験を通して実感された。 

 

 ある質量をもった物体を上に放り投げると、上昇するに従って運動エネルギーがゼロになるピークになった瞬間上昇から落下に転換して、今度は位置エネルギーが運動エネルギーに変換され次第に重力により加速されて落下して行く。

 

 ただ、腕なら腕がそのように居着かずに浮いて、落下出来る状態で、落下すればという身体(フィジカル)条件がつく。

すなわち、フィジカル(身体)のありようが整い、放り投げられ、落下出来る状態であり、自由落下出来る動き、初速度0m/sから次第に落下するに従い位置エネルギーが運動エネルギーに変換されて、重力加速度g(9.806 65 m/s2 )により、加速して落下する。

 

 人間は、この落下する運動には逆らえない。というか、その動きを知覚認知して行動を起こして留めることが出来ない。すなわち、認知の不成立状態である。

意識して、いきなり加速度を加え、急発進する事に対しては、対抗、抵抗出来る。

が、放物線のピークからの落下のような動きに対しては人間は動いているという認識が出来ない。

試してみると、決して落下という事ばかりでは無い、この放物線落下運動モデルを3次元で、色々と応用するとことが出来、それが武術的な動きにもなるようだ。

 

 

また、一度その落下に巻き込まれて崩れた身体は、その落下の元となった身体の重さが減りもせず、増しもせずぴたっと乗せられて(張り付いて、続飯付けされて)いると、刺激にならず、触れられているという認識も出来ずに、重さをかけ続けられることとなり、自立的自律的な反応が出来なくなる。

接触部分からの刺激が入らず、触れているという知覚が成立せず、認知も出来ない状態(認知不成立)となり、次第に身体的動作活動は不活発になり、最後は動くに動けない状態に陥る。しかし、そのなんとも言われない動きたくない状態が続くと、外界からの刺激が遮断されているだけに、それまで耳を塞いでいた身体そのものからの情報収集活動が活発になり、これまで知覚されなかった身体内部のありようも知覚されやすくなる(内観が活性化されてくる)。

 

この状態は一切の緊張ストレスが取れた状態でもあり、いわゆる癒やされた状態ともなり、自律神経の起伏、感情の起伏も穏やかになり、安心、安全の心持ちともなり、自律神経、内分泌、免疫系などの恒常性(ホメオスターシス)も自ずと活性化される。さっぱり、しっかり、すっきりと元気、元気!

 

また、人間は、足で地球と接している。そして自分自身の質量があり、それに重力が働き、常に落下しつつある。一方、地球からは常に自分の重さに対する反作用を受けて反力が働いている。

何を当たり前のことと思われるかも知れないが、私にとっては、目から鱗の新たな認識であった。則ち、体のありようが自然体、落下体であれば、地球に重さを伝えてやれば、いつでも地球からその反作用(反力)が働いていて、釣り合っている。すなわち、浮きが掛かった状態である。

反作用を主に作動させることも出来る。片脚に加重を掛けて踏めば踏むほど反作用を得ている。

それを解放してやれば、上へ動く(浮き、ジャンプ)原動力となる。

 

いつでも浮きが掛けられており、それだけで(それだからこそ)楽に相手と一体化して四方八方いずれの方向にも放物線落下運動モデルで動けると理解できた。

 

さらにモデル2としては、支点を中心に上下のみでなく左右へも自由にバランスが取れるモデルも示した。これで、支点を中心に自分が座っている所までの釣り合いの取れた半径で描かれる球面上は、自由に浮いて、バランスが取れる(球面バランス)。

また、先に、浮く一つのモデルとしてごく一般的なシーソーを示した。モデル1は、支点を中心に上下しか自由度がない。

 

 

 

さて、そこで、更に前後の自由度を上げるためには?

そう、支点が前後に自由にバランスを保ったまま動けばよい(水平面自由支点)。

 

シーソーがバランスを保ったまま水平面で自由に動けることが想定できるなら、その支点そのものが、四方八方に3次元で自由度をもたせられたら自在な動きが、実現する(空間自由支点、浮遊支点)。

 

 

更にバランスの取れているシーソーの片側の重さを自在にコントロールすれば、他方の浮き、沈みも自在になる。

 

 つながりバランスが取れて浮いた状態になってしまえば、力点の重さの力を変えても、支点との距離を変えても、バランスを変えられるし、浮いた状態であれば、移動も楽にできる。ましてや相手が自分の重みで崩れ始めたら、自由度高く相手を軟着陸もさせられる。

自由浮遊状態となれば、どこにも当たらず、気が付いたら横たわっているというのも夢では無くなる。

そして、さらに身体内部個々のありようが自由浮遊状態になれば、相手に取っては空間の歪みとして感知され、立っていることの認知不成立が成立し、自分自身のそれまでのありようの基準が崩壊し、筋肉運動が活動休止状態となる。

それはまだ未実現だが、その被験者としては体験済みであり、やはりそこを目指したい。

 

これまで自分で自分を型にはめ、つないでいた鎖、身に染み付いた錆、殻をいつまでも身に付けている必要は無く、今では本来の柔らかなあるがままのありようで、良いのだとしっかりと思える!

 

認識が改まれば、フィジカルも改まる。それでいいんだ、なんだそうなんだと真に自分をそうと思えるかどうかだ!!

 

 『今までの努力感満載の安心領域』から、『新たな調和と重みにお任せ安心領域』へシフトすれば、見えるもの、聞こえるもの、体感し、納得するものも自ずと変わる。わざわざ変えなければいけないと努力して変える必要は無い。努力して変えようとすればするほど、余計な緊張、居着きを生み、我が身を鎖で縛り付けてしまう。特に、身体の一部分に命令して、動かそうとすると、益々体が不自由になり、硬直し、居つくことになる。自分勝手な勘違いを身体に押し付けないで、無駄な余計な意味のない努力をしないで、その状態を楽しみ味わうありようが必要。

思考も努力も、居つきの元!

 

浮きとバランスという切り口、観点から見えて来たものは、身をもって身体のありようの変容という目的も明確に意識しやすく、ありようの変容もしやすく、おのずと変容できそうだ!

これまでの安心領域、硬い凝り固まった窮屈な固定観念から、新たな安心領域と新たなセルフイメージ、人間観に移行できる!

 

これまでの長年親しんで離れがたいありようから、新たな柔軟なありように無理なく変容出来る。出来る。出来るぞ! 自己像も自由に解放出来るぞう!

 『今までの努力感満載の安心領域』から、『新たな調和と重みにお任せ安心領域』へシフトすれば、見えるもの、聞こえるもの、体感し、納得するものも自ずと変わる。わざわざ変えなければいけないと努力して変える必要は無い。努力して変えようとすればするほど、余計な緊張、居着きを生み、我が身を鎖で縛り付けてしまう。特に、身体の一部分に命令して、動かそうとすると、益々体が不自由になり、硬直し、居つくことになる。自分勝手な勘違いを身体に押し付けないで、無駄な余計な意味のない努力をしないで、その状態を楽しみ味わうありようが必要。

思考も努力も、居つきの元!

 

浮きとバランスという切り口、観点から見えて来たものは、身をもって身体のありようの変容という目的も明確に意識しやすく、ありようの変容もしやすく、おのずと変容できそうだ!

これまでの安心領域、硬い凝り固まった窮屈な固定観念から、新たな安心領域と新たなセルフイメージ、人間観に移行できる!

 

これまでの長年親しんで離れがたいありようから、新たな柔軟なありように無理なく変容出来る。出来る。出来るぞ! 自己像も自由に解放出来るぞう!

 

 そして、開業以来追求してきた身体全体の調和のとれた健康、リハビリ療法という課題を達成するための大いなる転換点だ!

 

学んで教わるだけではなかなか変容できない。

自分で試して、壁に、疑問に、課題にぶち当たり、悩むからこそ試行錯誤せざるを得ず、知識と体験がある時、スパークして自分自身で新たなもの(コンセプト、概念、観念)が、創発される。

 

自ら発見したものは、自らのものになる。

 

同じ内容の、意味の知識を与えられても、真に理解、実感すること、ましてや実践すること(知行合一)は難しい。

例え、手取り足取り教わってその時出来ても、自分で体感、実感、体認、自分のありようを内観できない限り、何が出来て、何が出来ないのかも分からない。

自分自身を真に受け入れられない事は、やはり身に染み込まないし、身に付かない。

自分でとことんやってみて、失敗をきちんと失敗し、その失敗を元に、自分で考え工夫し、自分の身体を通して知覚、認知して、気づく! そして、選び取る。そしてそれが普通になる。

そうでないと、借り物、添加物、付け刃でしか無い。

しかし、その際、良くも悪くも見本となるものがあるなしでは、雲泥の差。

頭だけでも、体だけでも無理。身体を通して知覚し自ら学ぶ。

 

 以上、前後左右のバランスを取り、相手との間合いがとれ、釣り合った状態で、からだの重さを土踏まずの後ろ、踵の前の一点に落とし、地球からの反作用を貰えるありようを維持する。

肩を足裏のその1点に鉛直線上で乗せる。

躯幹を充実させて上半身は浮き、下半身は落下させるからこそ、股関節は半クラッチ状態、自由度を保ち自在に動ける。落下してるから浮いている。

転がるのも決して鉛直下方向のみでは無く、ふわりと浮きつつ沈む。沈むから浮く。浮いてしまえば慣性の法則で動き続ける。

身体よりも意識。意識だけでも落下し続けてる状態を保つ。 

流れて居れば触った相手が勝手に緩み崩れる。

その釣り合い落下状態になると、掴んだ人が触れた時点で緩み勝手に落下して崩れて行く。こちらはそれにやんわりと付いて行くだけ。

 

境(さかい)すなわち空中支点がある。内に籠もらず、外に出ず。相手とこちらのバランスの取れている鉛直前額面。その面を維持して、足元からゆらりと落下で動く。